経歴
最初にざっくり、経歴は
真砂2中(現真砂中)→稲毛高校→中央大学です。(↓母校)
入学前の初期設定
そしてまず、中学時代の話の、”前提”となる話をします。
3つ上の兄が「県千葉」に合格し、それと入れ替わりで自分は中学に入学しました。
- 「『県千葉』以外の高校は特に知らない。『千葉東』は、まあなんとかましな高校らしい(←とんだ勘違い野郎の上から目線の無知のクソガキでした)。」
- 「定期テストは基本的に450点〜480点ぐらいが普通らしい。まあ、小学校のテストなんてほとんど90〜100点だし、それぐらいが妥当でしょ。」
それぐらいの知識と常識を備えた”山田ゆうすけくん”が中学に入学しました。
最初のテストで、、、
まず、最初の定期テストの衝撃を覚えています。
テストはたしか390点ぐらい。普通に生きているだけで取れるはずの450点が取れない…
きわめつけは、理科60点。
「ろ…ろ…ろ、ろ、ろくじゅうぅ!?」
となったのを覚えています。
とにかく、自分のもっていた常識と、現実に大きくギャップがあったことに衝撃でした。
このとき、試験勉強は約0分。大げさに盛っても全部で10分もやっていなかったと思います。
つまり、当然の結果でした。
これで反省して次に活かすかと思いきや、次回以降ももちろんノー勉。。。
「全然勉強してないやー」とかいう例のセリフとは違い、本当に勉強してないただのバカ者でした。
しかも、「勉強してない」ことにも気づいていなかったと思います、バカだったので(笑)
毎回少しづつ点数を落としていました。
中1最後の定期テストで
そんな失敗を重ねまくり、ついに1年生の最後のテストで
「このままじゃ自分超ダサいな。ちょっと本気出してみよう!」
と思い、初めて自ら勉強したのを覚えています。
これが中学時代の勉強面の最初の変化だったと思います。
ついに受験生に
話は飛び、3年生になり部活も引退で受験生。
ずっと市立千葉を第1志望にしていました。
- みんなが「県立」のところ、自分は「市立」。みんなと違うぜイケてる
- 仕組みはよくわからないけど「単位制」。みんなと違うぜイケてる
- とにかく近いところで自転車で行く。早く帰ってバイトでもしよう。イケてるし
ぐらいの志望理由でした。
当時自分が受けていた模試では、偏差値がたしか
- 県千葉62
- 千葉東60
- 市立千葉54
- 市立稲毛53
でした。
夏の始まりの時点で、偏差値は55ぐらいだったと思います。
「県千葉、東ぐらいいけるぐらいの偏差値で余裕で市千葉にいってやろう!そんなやつあんまりいなそうだしイケてる!」
とわけのわからない野望をもっていたので、ずっと偏差値60以上を目指してやっていました。
結果、3年の冬で偏差値61。目標は達成できていました。
このときは想像もしていなかったです。
市千葉に落ちることを!(笑)
市千葉の試験がまったくできなかったんです。
試験中に落ちることを確信しました。
結局、合格発表すら見に行きませんでした(笑)
試験終了と同時に本当に走って家に帰り、初めてそこから本気で勉強しました。
勝手に”格下”だと思っていた市千葉に、コテンパンにされた自分に非常に強い怒りを感じました。
一般試験(現在の後期試験)は、事情もあり稲毛高校を受けることになりました。
「1ミリも落ちると思っていなかった市千葉に落ちた。おまけに1度も志望してこなかった学校を受ける。こんなに情けないことをするんだから、死んでも1位で入らなければならない。」
と自分で覚悟を決めました。よくわかりませんが(笑)
この市千葉の試験日から一般試験までは本気で勉強し(でき)ました。
(「不合格」という経験のおかげで初めて本気の本気になれたので、結果オーライだとは思っています^^; )
一般試験では2位で入れたみたいでした。1位ではなく。
450点取れるように勉強していたが、結果は447点。
結局私の高校受検は、「市立千葉」と「稲毛に1位で」という勝負どちらにも負け、目標点にも届かず、負け続けの高校入試でした。
総括
よかったなと思うことは
- 両親からは一切「勉強のこと」や「兄弟や周りと比較」されなかったこと。
- その中で「テストの点数を落とし続けたこと」と「第1志望に落ちたこと」を自分の行動と責任で経験させてもらえたこと。
- 親が一切何も言わないおかげで「自分自身で気付かさせる」という経験をさせてくれたこと。
- 周りと比較せず兄よりできない(やらない)自分を腐らせないでくれたこと。
だと思っています。
以上が中学時代の「勉強面」の話でした!
2019年4月追記
私は「兄は『県千葉』→『東大』なのに、俺はへっぽこ。高校受験は兄よりはるか下の学校に落ちるし、大学は国立諦めて私立だし、親に迷惑かけてる。」
ずっとそんな感じの劣等感を心のどこかに持っていました。
中学校の面談では、ほぼ確実に担任の先生から
「お兄さんは県立千葉なんですね!」
という一言。からの、高校では
「お兄さんは東京大学なんですね!」という一言(笑)
ほんと勉強の話は好きじゃなかったし、心の底から勉強に興味なかったし(逃げてた?)、まあとにかくコンプレックスでした。
しかし、母がいつだって自分の味方をしてくれました。
学校の面談では、普段怒らない母が、先生のお決まりの例の一言に対し、
「今それ関係ないだろボケェ!私はこの子の話をしに来とんじゃドアホ!」
ばりの勢いで(笑)、先生の悪気があったかどうか知らないですけど、そんな心無い言葉から自分を守ってくれました。
「大学は国立しかありえない。経済的にも私立大にいくのは無理だし、国立にいくのが義務だ」と思っていたけど、
「本当は私立の東京理科大か中央大のこの学科に行きたい。場所的にも、東京の都心にある学校がいい。でも、、、無理だよね。てか、兄と違ってごめん。」と恐る恐る伝えたときも、
「いいじゃん!中央とかってMARCHでしょ!?かっこいいじゃん♪私なんて高卒だよ?いけるもんなら私もMARCHいきたいわー東京いきたいわー!頑張ってね!!!」
と言ってくれました。
母が自分の味方をしてくれたように、ぼくも200%みんなの味方です!!
そんな感じで育ったので、
- 「俺はみんなを兄弟や周りの人と比べたりは決してしない!」
- 「勉強が適当な人の気持ちもわかる!」
- 「成績が上がったあと油断する人の気持ちもわかる!」
- 「そして失敗した人の気持ちもわかる!」
- 「そういう人を怒ったり責めたりしない!」
- 「勉強は誰でも必ずできるようになる!」
そんなことを伝えました。
だから、困ったことがあったら頼ってくださいね!
勉強以外の面
小中学生時代はずっと野球をやっていました。
中学の野球部では、自分のおかげではありませんが千葉市優勝もできたりしました。
高校ではまさかのラグビー部の主将でした。
話題の五郎丸選手と同じポジションで、同じくキッカーでした。
↑高校のラグビーやってたときの写真です(笑)↑
なので高校時代は今より体重が15キロぐらいありました!今や見る影無しですが。。。
そんなところで昔話を終わりにします!
最後まで読んでいただきありがとうございました^ ^
こんにちは!リードアップの山田優輔です^ ^
「先生の中学時代のことを聞かせてください」とリクエストがありました。
ありがとうございます!(笑)少しでも興味を持ってくれた方に向けて、今日は「山田ゆうすけ」の昔の話を書きます!